「キリクと魔女」という、フランスで大ヒットしたアニメ映画の原作を読みました。

あらすじは以下の通りです。
キリクが生まれたアフリカの村は、魔女カラバの恐ろしい呪いにかけられていた。泉の水は涸れ、魔女を倒しに出掛けた男たちはすべて魔女に食われ、村に残っているのは、女子供と老人だけ。「どうして魔女カラバは意地悪なの?」。持ち前の好奇心と行動力で、小さなキリクは賢者が住むという“禁じられたお山”へ旅に出る・・・   (「キリクと魔女 [DVD] 」Amazon説明文より)

作者ミッシェル・オスロは、幼少期をギニアで過ごしており、その体験が作品のベースになっているそうです。
神話のような独特な世界観の作品で、あっという間に読んでしまいました。
今日はその感想や考察をまとめてみたいと思います。

※以下、ネタバレがありますので、ご注意ください。


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この物語が、一般的な神話や昔話と大きく異なると感じられるのは、「悪役」の定義だと思います。

普通、悪役となる鬼や魔物、魔女はただ悪であるとしか説明されず、主人公はその悪役を倒し、平和が取り戻されたと締めくくられるものです。
しかし本作では違います。

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キリクは、魔女カラバが意地悪な理由を周囲の大人に問い、納得のいく答えを求めて賢者(=キリクの祖父)のもとへ向かいます。

賢者は、泉の水が枯れたのは魔女のせいではないし、魔女は男達を貪り食ってなどいない、と説明します。
魔女は、背骨に毒のトゲが打ち込まれて苦しんでいるため、人々にあらゆる苦しみを与えることを願っている、と賢者は話します。

魔女がトゲを抜かない理由として、賢者は2つ理由を話します。
もしだれかがトゲを抜いたら、魔女はその瞬間だれも想像できないくらい苦しむことになるからだ。このおそろしい苦しみのことがあの女に分かったのは、トゲを打ち込まれている間、動かないように男たちに押さえつけられていたときだ。たとえどんなことがあろうとも、あれを二度と味わう気はない (p.111)
あのトゲなのだ、あの女に魔法使いのいろんな力を与えているのは、もしトゲを抜くと、同時にあの力も取り上げてしまうことになる (p.111)
その話を聞いて、キリクはカラバのトゲを抜くことを決意するのです。

様々な障害を乗り越え、キリクはとうとうカラバのトゲを抜きます。
そうして魔女の力から解き放たれ、「新しいわたし」になったカラバに、キリクは求婚します。
カラバはキリクが子供であることを理由に断りますが、カラバが求められてキスをすると、キリクは一気に成人になり、二人は結ばれるのです。

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ここで魔女に魔力を与える「トゲ」は、トラウマやコンプレックスの象徴と言えるのではないかと思いました。
周囲の人間に打ち込まれた「トゲ」がある事で、その痛みを原動力として闘い、地位や名誉、成功などを手に入れることができるのでしょう(物語の中では、カラバは小鬼を多数従えて、籠いっぱいの金の装身具を持っているということでそれが表現されていると考えられます)。
カラバは、原動力としての「トゲ」を失ってしまえば、自分が無力で傷つきやすい、弱き者になってしまうのではないか恐れているのではないでしょうか。
その「トゲ」はまた、それを打ち込まれた苦しみを忘れてはならない、こんなものを打ち込むような人間がいる世界への憎しみを忘れず、世界を常に見張り続けていなければならないという自分への戒めにもなっているからこそ、手放しがたいのかもしれません。

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カラバはトゲを抜かれ、魔力を失います。しかし、キリクにキスをして成人に成長させてしまうのです。呆然とするカラバに、キリクはやさしくこう言うのです。

ほらね、おまえとは失ってしまったわけじゃないんだ。力のすべてを…(p.127)
痛みのもとである「トゲ」を失って、カラバは自由になります。
恐れをを抱かせたり、人をコントロールするような力を失ってしまった、でもカラバには愛する力がある、とキリクが諭しているように読めました。

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シンプルでわかりやすい話の筋でありながら、ファンタジーとしても、哲学的、神話学的にも深読みできる作品でした。
DVDも出ているようなので、是非見てみたいなと思います。